※前半、FBに全く同じ内容の投稿をしています。
それを書き込んだことによって思ったことと、その前から書こうとしてずっろこのブログの下書きに眠ってた内容を書いてみます。
娘が私を泣かしてくる。
「二人ともぉ、ほねになったね・・・んっと・・・ひーばーちゃんと○○○おじちゃん」
3歳ってのは結構侮れない記憶力をお持ちのようで。
それともやはり半年の間に二回のお通夜~葬式~火葬なんて流れは余程娘の中に何かを刻み付けたんだろうか。
あぁ、またか、またこれ系の話か、そろそろ辞めてくれんかなぁ・・・答えるのも結構辛いんだよねー、アハハ
なーんて思ってたら。
子どもって時にすごいこと言うのね。
「○○○おじさん、おかあさんみにきてたよ。だからおかあさんなかなくてもいいよ。あそびにきたよ!さきちゃんあそんだよ!!」
泣いたw
ところで・・・。
私の亡くなった叔父は「ひでと」という名前だったのだが、娘は最初ちゃんと「ひでと」と言えてた筈なのだが・・・
「ひげとおじさん」になってたorz
髭とおじさん。
なんか名画か何かのタイトルですか?orz
とまぁ、こんな内容を書いたのだ。これ自体は先日寝る前の話。
我慢してたけど会話が進むごとに泣く私。
私はまだまだ叔父の死が受容できてないように思う。
旦那は「叔父さんでこれだけ泣いていたら俺が死んだらどうなるんだ」と笑った。
笑い事ではないorz
所謂デス・エデュケーション、日本では死生学っていう、非常に日本人らしい名で学ばれる。
死を見つめることによってより良い生につなげるって話なんだけど、身近な人の死は学ぶ機会になるのだが、自分自身がそういう教育をされた訳でもないから次世代にも上手く伝えられない。
よってひげとおじさ・・・いや、叔父が「どうしてほねになったん?」と聞かれると上手く答えにくい。
なんて話をしていたら火葬後の姿を、収骨を子どもには見せないって意見もあったのね。
というかその会話の中では見せた方が少数派で…。
実は昨年10月にもうちの子達はお葬式を体験している。もっと前にも一度あるのだが、流石にそれは覚えて無さそうだ。
10月のは、旦那の祖母で、子どもの曾祖母にあたる訳で、年齢を考えても大往生。
ある意味悲しみは少なかった。そして完全なる家族葬だったので、収骨の間に誰かが外で子どもを見る、なんて思いもしなかった。
冷たくなって寝てる(というとちょっと変だけど)こと、燃やしてしまうこと、神様になること、それは骨になること、みたいな説明をその場にいた大人がそれぞれ子どもたちに話してくれていた。
ところがね、何度も聞いてくるんですよ・・・www
不思議なんだと思う、ある意味納得してないんだと思う。そんな時に本屋で見つけたこんな本。
若干ネタバレになるが、死についても書かれていて、まぁいろんな考え方があるよっていうね。
私が実は今大学生なのだが(何)先日死生学のレポートを書く時に読んだ文献がコッチ。
たまたま葬儀、というより叔父が死へと緩やかに向かう中で死生学の本を何冊か読むことになったのは、結果良かったと思います、思うのです。どうにかして安心させようとね、頑張れたんです。(だがしかしテンパって結構微妙な事を叔父に一生懸命口走ったのは別の話orz)
だけどそこにばっかり必死で叔父さんがいない世界を否定して元気になる事を祈り続けた私は、子どもの問いにうまく答えられなかったのですよ・・・。
それでも、うちはうちで、収骨室の光景を見せて、お骨まで入れさせた経験は良かったと思ってます。
だって私が泣く理由を3歳なのに理解しようとして、私の頭を撫でてくれるんだからね。
賛否両論ありそうなので「否」をいろいろ聞いてみたいなぁ。